昭和46年05月20日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 「天地金乃神は昔からある神ぞ」という風に、表現しておられます。何か天地金乃神様が新たに名乗りを上げられたような感じですね。昔からある神。けれどもそれを皆がそれと知っていなかった。教祖金光大神、いわばご出現によって初めて天地金乃神様を私共が知ることが出来たわけであります。しかもその天地は、流行ることもなし。けど流行ることがないからには、終わりもないのだと、ご自身をそのような風に、天地金乃神様は仰っておられたね。
 そこで天地金乃神様、金光大神そして私共と取り次ぎの働き、金光大神のお取り次ぎの働きが、天地金乃神様と氏子私共の間に起きてくる。そういう働き合いが起きてくるお取り次ぎをして下さる。そのお取り次ぎの働きが働きたらしめられるためにね、天地日月の心になること肝要だと教えられたわけなのであります。教祖様自身が様々な実意丁寧の限りをお尽くしになられ、まぁいうならば、天地金乃神の心を心としての、生き方にならなければと教えておられるわけです。
 又教祖金光大神のご体験から言うたら、ご自身がたどられた、いわゆる実意丁寧神信心というその、だから天地日月の心というのは、天地金乃神のお心であると同時に、金光大神がそれをおこのうてみられた、実意丁寧神信心と言う事にもなるわけなのです。だから天地日月の心というのは、まぁ実意丁寧と言う事にもなるわけです。同時に天地金乃神様からいうとね。天地金乃神様の心を心とすると言う事になるわけですね、ですから天地金乃神様のお心を分からせてもらうね。
 だからこそその心に沿うた生活が出来るわけです。いうならば天地の道理に合うた生き方、しかもその生き方をです、実意丁寧を持って生きていこうというのが、天地日月の心になることだと私は思いますね。そこでです、信心はせんでもおかげはやってあるとね、今日はここのところに、ただ焦点を置いてお話を聞いて頂こうと思う。信心はせんでもおかげはやってある。それはやはり、天地のご恩恵を受けていないという者はありませんよね。こりゃ人間だけじゃありませんね。
 もうありとあらゆる生きとし生けるもの、その全てが天地のご恩恵を受けておるのですから、そういう大きな意味において、信心はせんでもおかげはやってあるわけですね。牛やら馬にでも、やはりおかげはやってある、これは人間だけじゃないのだ。ですからここんところを、そういう大きな意味合いにおいてのご恩恵を受けておると、そういう働きを皆の、人間だけではない、全ての生きとし生けるものの上にお恵み下さってあるんだという意味ではなくてですね、ここんところは。
 信心はせんでもおかげはやってあるというおかげ。教祖様は信心のある者とない者を、氏子、又は信者氏子という風に呼んでおられますね。信心のある者を信者氏子とこういう。だからその信者氏子であると言う事。いわゆる金光様のご信心を頂いておると言う事。金光様のご信心を頂いておると言う事がね、だからこれは特別のおかげを受けられる場にあるという事にもなります。同時に神様がおかげは降るようにとこう言うて下さるんですからね。恩恵というものは。
 だからこそ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのですね、それはどう言う事かというと、まぁ人間氏子だけに絞りますと、人間氏子の真実の幸せというおかげなのですね幸せになってくれ、おかげを受けてくれよと言う事は、幸せになってくれよと幸福になってくれよと言う事なんですね、ですからあのおかげを、全てのなら人間氏子におかげは下さってあるのを今度は、又本当の意味においておかげをおかげ足らしめる。幸せ、幸福というおかげにしていくというのは、信心によらなければ出来ないのです。
 ね、例えばおかげは降るようにあってある。ですからその降るようにあっておる例えばおかげを、真実受け止めるというところにです、人間の幸せの条件というか、その幸せの条件である全てを受け止めることが出来るのです。いうなら信心のない者にでもやってあるけれども、信心のないものは、それを受け止めきらんというだけのことなの。いや信心があってもです、ここの天地日月の心になること肝要なりという、そういう精進をしない者の上には、だからおかげは頂かれん。
 私共が健康の上にも、経済の上にも、人間関係の上にもスムーズなおかげを頂く。必要な物が必要に応じて頂けるね、そういうおかげをです、なら何時も下さってあるんだけど、それを受け止めれる人。受け止め得ない人。こりゃ信心があってもですよ。そう言う事になるでしょうが。そこでそれを受け止め、えさしめるためにですね、教祖は天地日月の心になることを、いわば強調されるね、身を持ってご自身がおかげを受けられた話を、様々な角度から話にして残しておって下さったわけであります。
 だからどうでもね、本気で天地日月の心になる事の精進がなされなければね、ダメなんです。本気でその気になる事なんですね、そうして例えば分からせられる事はどう言う事かというとね、これはまぁ私の例で言うとです、いうなら自力というよりも我力と言う事でしょうかね。人間は我力では絶対に幸せにはなれないと言う事。私が私の力でと言う様な事では絶対、こりゃもう絶対に幸せにはなれないね。そこで自分自身というものをですね、本気で分からせて頂くと、この神様のおかげを頂かなければね。
 いわゆるここ一寸が実は動かれないほどしの私達。いわゆる「障子一重がままならぬ人の身である」と教祖は説かれた。その事実をね私共が知ること。だから我力無効ということになるわけですね。無効というのは、効果が無いという意味ですよ。だから人間の幸せの発端というのはね、ここが分かる事です。我力無効なの。自分の知恵やら力でなすことはね、もう幸せと言う事の、上においては、もう効果はない。無効だとね、天地の親神様の大愛の中にある自分を悟るね。
 死ぬる生きるの大事を親神様のこりゃ死ぬる生きるね、死生の大事とこう申しますが、これは死ぬるとか生きるとかとその、中間のことも勿論そうなのですよね、生まれた、そして直ぐ死ぬるというその中間のこと。とても親神様の御計らいの中にです、あるのであるから、そこに初めてこの神様のおかげによらなければと言う事になってくる。いわばお任せする生き方ね、いわゆる神様任せの生活という。いうならば神様を中心にした生活。自分本意の生き方ではなくて、神様のお心本意の生き方。
 これをお任せした生活とこう。だからこれはもう生きるも死ぬるもですけれども、その中間も、いわゆる神様を中心に申し上げた生活。神様本意の生活ね、生活にならせて頂いた一人ひとり、始めて自分が幸せ者であるなといえると、私は思うです。よく申しますよね、子供が少しまぁ色々と孝行してくれると、もう私がもう世界一の幸せ者じゃろうと思いますと。まぁ年をとっても健康であると、もう私ごたる幸せなもんなおりませんと。というけれども、本当の幸せ者といえると言う事を。
 今私が申しましたようにね、全てが天地の親神様のお計らいの中にあるんだと、分からせて頂くところからです、神様本意の生き方にならせて頂くという、そこから初めて私は幸せだと言う事になってくる。又私は幸せ者だといえると言う事になります。そこでです、信心はせんでもおかげはやってあると。その信心のない者にでもおかげを下さってあるのですからね、それを受け止めれる術。受け止めれる道を、私は金光大神は教えておられるんだとね、その受けとらせて頂けれる。
 おかげを受けさせて頂くと言う事の上に置いてですね、様々な働きがあるわけであります。真心とか一心とかといわれます。私共が何かに直面を、いわゆる難儀なら難儀に直面致します。その難儀に直面いたしまして、神様にお縋りをする心が起きて参りますね、いわゆる初めて一心を出すことになるのです。しかもその一心がね、真でなからなければならないことが段々分かってまいります。いわゆる普通に申しますね、艱難汝を玉にするという。艱難いわゆる難儀ね。
 だからその至誠でね、真の限りというその難儀というものは、そういう働きを人間の上に、人間氏子の心の上に起こさせる、いわば働きがある。だから、難もまた有り難い。ということになるわけですね。
 功徳のおかげで入信のおかげを頂いた。お話を頂かせてもろうて、なるほど自分が不幸せである理由が分かった。そこで真を追求し、又は一心を絞らせて頂く、いわば実意丁寧な姿勢がそこから生まれて来てね、そこからいわば有り難い、いわば真の道を分からせて頂くことが出来る。そういう例えば、真とか一心とか、いわゆる実意丁寧とか天地日月の心と言う様な、いわゆる言葉で表現しましたがそういう心の状態に私共がなろうと、精進する、勤めてまいりますとね。
 どう言う事になるかというと、日々の生活の中にね、潤いとか有り難いとか勿体無いと言う様な、雰囲気が出来てくるね。いわば心の琴線というものがですね、心の琴線。琴線に触れるというでしょうね。いわゆる琴の糸という意味ですね、楽器のその琴の糸のような、自分の心に触れる。心に琴線に触れてくる。有り難いとか勿体無いとかね、そういう心の状態に、なら信心生活に入らせて頂いて、しかもそれが天地日月の心になることに精進させてもらう、実意丁寧にならなければならん。
 神様の心を分からせてもろうて、神様にお喜び頂けれる心とはどういう心であろうかと、至誠の限りを尽くすと、言う様な様々な、いわゆる幸せになって行く条件の土台になる心がね、出来て来るわけです。そして、その心に触れてくるもの。心の琴線にいわば触れてくるもの、それがいよいよ私をして、有り難うならしめるのですね、ですから自分の心の中の調子が狂うておると、嫌な雑音になったりするわけなんですね。これはまぁ楽器を例えて申しますが一番分かる。
 調子の狂うた楽器では、どんなになら楽譜通りに弾きよっても、良い音色というのは出て来る筈がないものですものね。信心とはだから自分の心の調子。心の調子を何時も合わせておかなければならん。そこで最近私が申しております、金光様と金光様を念ずるたんびに有り難いなぁと、あれを見ても思うても、何を感じてもです、金光様というのが、神恩報謝の表現だというふうに私は申しておりますがです、そういう状態の時であるならば、間違いがないわけです、心の調子があっておる時なんです。ね。
 所がそれとは似ても似つかない、いわばような場合もありますから、そういう時にいち早く、いわゆる調子を整えさせて頂く事に勤めなければなりません。御神前に座るがええ。お広前にやってくるがええ。御理解を拝聴した上にも拝聴するがええね。昨日も杷木の教会におかげを頂いた、総代さんも「市川」さんといわれる。ちょいちょいお参りになります。お参りをして来るとご理解をもう繰り返し繰り返し頂かれる訳ですね。
 何時間という時間をかけて、しかも又お参りをしてきて、あの御理解頂いておられると、又あそこに行ってじっと御理解を頂かれる。合楽の方達は幸せじゃな、こういう御理解を日々頂いておられて、というてそのまぁうらやましがっておかげを頂いておられる。しかも頂けば頂くほどです、いわば味わいというかね、先程聞いた時には分からなかったことが分かっていくというて、昨日も夕方まで御理解を頂いて帰りましたんですけれどね。御理解を頂くと言う事によって、いよいよ分からせて頂くもの。
 又は分かると言う事ではなくてね、これは理屈ではない有り難いもの。いうならば心の調子が整えられると言う事ね、これはもう理屈じゃないのです。そこから有り難い事になってくる。全てが有り難いことになってくる。いわゆる神様の全てがお計らいのことにあることだと言う事になってくる。昨日の朝の御理解の中に、極楽入門とか、合楽入門といったような御理解を頂きましたですね。
 昨日はお名前を伏せてお話しましたけれども。あの御理解を頂いたのは、久留米の石井さんの分家になります。石井「清之助?」さん。石井清さんの弟さんです。夕べはこれをしておられます。信心があるといやある。無いといや無い。まぁ年に2回か3回か、ここの前でも通るような時に、参って見えるという程度なんです。その方の2番目の子供さんが交通事故にあわれましてね、電話では、頭をやられておられると、まぁ大変ひどいことだったですけれども。
 昨日改めてお届けに家族中でみてみえられまして、聞かせて頂いたんですけれども、もう頭がぐちゃぐちゃだったですね。小学校1年生になられる。誰か人工呼吸でただ呼吸だけはしておるというな状態。そのお届けがありました時に、夜半の事ですから床の上に私は起きて御祈念をさせて頂いたら、極楽入門と言う事を頂いた。だから感じからです、これはもうしまえたぞと思うたね、それを尚且つ助けて頂きたい、矢張りというのは皆の願いでもありましょうし、私とても助かって貰えるものならと思いますから。
 なおけれども何というですか、日頃信心がない方ですから、引っ掛けようがない、引っかかりようながない。そういう時ですそういう時にです、皆さんがやはり引っかかりつくってない米ば置かねばならんですから、そこの本家であるところの、石井清さんの家は、久留米支部が出来ます時に、一番初めに一番お世話をなさった方、その当時は非常に熱心に一家をあげて信心しとられましたからね。
 その時分のことを思わせて頂いて、そういう神様の御用も、何十年も前になさった、されたお家のことを神様に申し上げて、改めてお願いをさせて頂いたら。その朝前の朝でしたか、あの泉水の中の鯉が一匹死にました時に、そのことを頂いた。はぁこれはあのこれがお祭りがえでもあったであろうかと、私は思うてお礼を申させて頂いておりましたら、合楽入門と言う事を頂いた。極楽入門から合楽入門と言う事になってきたね。
 いわゆる、そのそう言う様々な人間の悲しい事柄に出会った場合、難儀にから出会った場合ね、それはもういうならあの世行きと言った様な事であってもです、そのことを通してそのことからですね、合楽入門がもしできて、只今私は申しますようなね、天地日月の心にならせて頂くことを、いわゆる我力で生きていくという生き方から、神様のおかげで生きていくことをする姿勢をとるというところからです、本当の人間の幸せが始まるというのですから、その難儀というものが、いわゆるおかげの元になる。
 成り行きそのものが神様の働きだ、と私が何時も説きますようにです、してみると、その子供さんそのものは、もう働きそのものが神様の働きであると同時に、その子供は神様だということになるですね、私は昨日夕方清さん夫婦、それからその本人のお母さんになります「ようこ」さんという子供達も連れて、ここへ5人でですか、お参りをして参りました時に、もう下がっとりましたれど、ここに出てまいりましてからお話をしたことでした。それが何故かというと、その何時間前にですね。
 そのその子供が亡くなったという電話がかかって来たんです。それはもう亡くなったというて、部屋に皆が入ってわんわん泣きだしたもんですから、そのおばさんにあたる人が、もう亡くなったもんと思うて、直ぐここへ電話をかけてきた。子供が亡くなりました。それでまぁ清さんのところを通して、やっぱ石井ここに改式しておりますから、なら葬式のことやら、または(せんれい?)のことがありますから。(せんれい?)にまずいかなきゃなりませんから。
 若先生がちょうど、昨日西久留米の大祭でありますから、その「清之助?」さんのとこの直ぐ近所が、西久留米の教会なんですよ。だからお祭りがすんだら、直ぐこちらから誰か、若先生でもいって、(せんれい?)のおかげを頂かせようと思うて、そのことの問い合わせをさせて頂いたんです。それが一時間ばっかり終わって。そしたらまだ死んじゃおるせんからね。とこう言う訳けなんです「上野」先生が受けておりましたが、お取り次ぎさせて頂いた。
 聞くのは、あの「杉原光男」さんが聞いとるんです。はぁ「光男」さんが聞き違えたじゃろうとこちらいよりました。そしたら昨日その、家族一同になられて来てからです、いや実は、もうその、石井清さんの妹に当たります「千恵子?」さんというのが、もう上がってしまって、病室に皆入って(しまえた)皆がワーンワーン泣き出したのだから、もう死んだと思うて直ぐここへ電話をかけた。
 やっぱそれは聞き違いじゃなかったという事になったんです。それをいうなら、上野先生が直ぐ、私昨日繁雄さんから足をもんでもらいよった。その時丁度。ほれであの、「清之助?」さんのところの子供さんが、先ほどお届けがあっとった方が、もう亡くなられましたそうですというて、お届けに来ましたけれどもね。私はもう本当にもうこれ、どういうこっじゃろうかと自分で思ったんですけれども、起きあがろうとも思いませんでしたね、その時ばっかり。
 あそうですかって、いながら足をもんでもらいならが言うただけ、普通でいうなら私は直ぐ起きて、奉仕着に着替えてご神前に出るですよね、そういう大変な事。けれども、この自分の心の中に、それを一つも感じないのですね。死んだと言う様な事を。ですからそうですかっというて、寝ながら上野さんのお届けを聞いただけでしたが、昨日の夕方参って参りましてから、あのやはり、初めてだから本人の母親が出てきたわけですね、もうそれはもうどんなに言うたって。
 じか、それも丁度清さんも変わった方だと思いますけど、それの死んだというお届けがあるほんのちょっと前に、清さんがやって来ましたです。そしてから僕は実際今日は、あの「清之助」達夫婦が、あの参ってくれちいうけん参って来ましたちうて来ました(笑い)。まあなんていう事を言う人、もう風雅人もここまで徹底すると困りますね。叔父に当たるんですから、自分が率先して出て来てお願いをする気にどうしてならんのだろうかと私は、まぁけれどももう、本当に憔悴しきってきとりますから。
 申しもしませんでしたけれどね。清之助さん夫婦が参ってくれと言うけん参って来たと。私の意思で参ってきたっじゃないちね。あでまぁあのそのことをお取り次ぎさせて頂いてから、直ぐいわゆる死んだというて、まぁお届けがあったけど、それはまぁ間違いの電話であった、けれども私は昨日夕方、家族中で参って来とる時申しました、母親にね。例えよしこれが死んでもです。
 私の生き方であるところの成り行きを大事にすると言う事は、難儀そのものが神様の働きだと思うからね、してみるとです、なら私は今朝からの御理解の中にいうとに、あんたのところお届けする時に神様から頂いたのが、極楽入門という事であったとね、ついで頂いたのが、合楽入門という事であった。よしそんならその子が死んだに致しましても、そのことを通して両親がね、合楽入門のおかげを頂くと言う事になったらね、あの子は神様であったと言う事になれば、その神様の、子供の死をもう最高のものにすることが出来るじゃないかと。そうなりましょうが。
 ね、あの子が死んだおかげで、私共は信心になった。なら私の、これは持論であるところの、成り行きそのものが神様の働きなら、その難儀、その亡くなったその子供はもう神様のお姿なんです。神様が両親を、幸せに導いて下さるための働きであったという事になれば、もう仏様でも御霊様でもない。あの子そこが神様のお姿の現れであったと、両親が頂けれるようにならせて頂いたら有り難いね、まぁどちらにしてもね、合楽入門をこの機会を逃がしてはならないよと。
 本家の方はあのように熱心に信心を、お母さん達がしておるのだから。あんた方も本気で合楽入門のおかげを頂いて信心せにゃというて、まぁかえしましたわけでございましたけれどもね。そう言う様な事がですね。私は今日皆さんに、信心はせんでもおかげはやってあるとこうおうせられるね。信心はせんでも、信心はしとってもおかげを頂けれるけれどもですね、信心をさせて頂く事によって、そういう思考ねもう最高のこと。最高の心の使い方が出来ると言う事がです。
 次のおかげをキャッチしうることになるのですよね、いわゆるその教えがです、心の琴線に触れてこなければね、出来んわけです。私はそこんところを何時もね、日常お互いの信心生活が、一つのリズムに乗った生き方にならなければならないとね、有難いとか勿体無いとか。又はある場合には相済みませんとかという、そういう一つのそこからリズムがかなでられるような調子が生まれて来る訳です心の中に。
 その調子にのった生活を体得させて頂くとです、本当に有り難いことになる。調子違うたら、あ、そこにしばらく踏みとどまってですかね、自分の心を整えさせて頂けれるゆとりも出来てくる。そこから神様が限りなしに、それこそを降るように、私共の上にはお恵みくださっておる、そのおかげをキャッチすることが出来る。そのおかげを頂く事が出来るわけでありますね、その為にはどうでも一つ、お互いが今日私が申しますね。我力無効と言う事を申しましたですね。
 自分の知恵やら力やらを持って幸せになろう等と言う様な、たいそれた考え方をまず捨てるというか、捨てなければおられないほどしの信心をです、分からせてもらわなきゃいけない。「障子一重がままならぬ人の身である」と言う事実を突き止めてね、それから本気で神様任せの生活。いわゆる神様本意の生き方にならせて頂くところから、初めて私は幸せものだと言う程しのおかげが頂けて来る様にもなるね、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと。
 三代金光様は私に教えて下さってありますね、いわゆる氏子が神様本意ならば、神様ご自身が、氏子本意になって下さるほどしにおかげがそこに現れて来る様になるのですね、そういうおかげを私共は頂きとめさせて頂かねばならん。今日はそこんところをです、信心はせんでもおかげはやってあると言う所。おかげはもう降るようにあっておる。それを受けとめさせて頂くと言う事ね、まずだから心の調子を整えよと。そこから教祖金光大神が教えられたね。
 天地日月の心にならせて頂くという、いわゆるそれをいうなら、実意丁寧と言う事になるだろう。の生き方をいよいよ身に付けてまいりたいと思うのでございます。どうぞ神様が、下さろうとするおかげをね、本気で受けとめるためには、どうしても今日申しました内容を、本当にマスターすると申しましょうかね。そしてそういう心の状態を整えさせて頂くことにならなければなりません。そして本当に私ほど幸せだと。本当の意味で言えれるおかげを頂きたいもんであります。
   どうぞ。